東日本大震災について ~虹の子保育園分園職員体験談。


平成27年6月26日
東日本大震災の発生から、四年が経ちました。四年前の春、あの頃の記憶や街の背景、空気やにおいを思い出すと、今でも身の震える様な思いにかられる事があります。
震災を経験し、生かされた人間の一人としてこの経験をご報告させて頂きたいと思います。
私は当時、福島県内の認可外保育園に勤務していました。同市内に姉妹園があり(本園)、総園児数は日中、夜間保育を合わせて、約150名おりました。
3月11日、私が勤務していた分園には、0~2歳児まで13名が登園していました。又、園長、主任、男性保育士は午睡時間、市役所へ行っておりました。理事長は本園におりました。
14:46…
園児は午睡時であり、私達職員2名は、0歳児、1,2歳児の部屋に分かれ作業をしていました。
地震発生時はそれほどの揺れではなかったのですが、子ども達の寝ている布団の中央に立ち、0歳児の部屋にいた保育士Aに「気をつけて」と声をかけました。
だんだん揺れが大きくなり、慌てて子ども達の上から布団をかけ、玄関のドアを開けに走りました。しかし、揺れが大きく、ドアにはじかれ、私のすぐ横で下駄箱が倒れ、再び子ども達のもとに走りました。棚から絵本が全て落ち、天井から吊るしてあった蛍光灯がゆさゆさと揺れ、次々に落
ちてきました。「揺れがおさまったら外に避難!!」と叫び、布団を引っ張り、寝ている子ども達を中央に集めました。子ども達が寝ているまま、バウンドしている様で、その上に私が覆いかぶさりました。
0歳児の部屋に目を向けると、可動式のベビーベッドに子どもが乗ったまま、部屋の中を動き、それを保育士Aが必死に止めようとしていました。
振り返ると、ロッカーが倒れ、ピアノが踊る様にどんどん前に動いてきました。調理室では、冷蔵庫がカウンターの上に上がり、電子レンジが飛んできました。(後日見つけたのですが、倒れなかった棚なども全て固定用のピンが抜けていました。)ただ必死に子ども達を守ろうと、、、もし子ども達に何かがあったら、、、建物が倒壊する様な事があれば、私は絶対に助かってはいけない、、、子ども達と一緒に命を捨てなければいけないんだと、覚悟したのを覚えています。あの数分は、本当に長く、恐怖にたえられず、心臓が体からとび出てくるんではないかと思いました。
長い揺れがおさまり「避難」と声をかけ、子ども2人抱きましたが、倒れたものを動かす余裕はなく、避難用に設置していたすべり台タイプの避難具を出そうとしました。(保育園がビルの2階だった為)ゆがんで開かない窓をなんとか半分開け、下を見るとレンガ敷きの歩道のレンガが浮き上がり、着地が危険と判断し、なんとか倒れた物の上を通り、階段をかけ降り外へ出ました。2人を降ろしたとたんに腰が抜けてしまいましたが、道の向こうの広場に避難してきていた方々に協力を求め、13名全員を広場に避難させました。
何が起こったのか、訳も分からず、保育士Aと共に子供たちのケガの有無を確認、その場を保育士Aにまかせ、園内に戻り、園長、主任、本園に電話をしましたが、すぐにつながらず、子ども達のくつ、上着、カバン、名簿をカゴに入れ、広場へ戻りました。すぐに近くのホテルの方々がバスタオルを子ども達にかけて下さり、中には、ご自身の上着を脱いで、子どもにかけて下さった方もいました。
14:53…
地震の直後から、すぐ前も見えないほどの吹雪になっていた為、国道を渡った所にある消防本部へ、周囲の方々に子どもを抱いて頂き、避難しまし
た。
(園の入口の床に「全員無事、消防署にいます」とマジックで書き置きをしました。)消防士に、園名、園児数と全員無事である事を伝え、何が起こったのか聞いたのですが、「ここは消防本部ですが、本部ですら状況がつかめていないほどの事が起きています。ですから、ここを動かずにいて下さい。ここは震度7でも大丈夫な建物です。」と言われ、改めて事の大きさを知りました。
15:05…
園長、主任、男性保育士が戻り、合流。
園の近くで仕事をしている保護者が来てくださいましたが、ほとんどの方が、「職場から戻る様に言われている」との事で、子どもの顔を見てすぐに戻ってしまいました。
16:00…
同市内の幼稚園に行っていた主人と合流し、園長、主任、男性保育士、保育士A、主人で保護者の帰りを待ちました。最後の子どもを引き渡せたのが、20:30すぎでした。
本園の方は、それほどの被害がなかったそうですが、停電で暖が取れず、保育士の車と、園バスに子どもを乗せ、エンジンをかけて暖を取りながら、保護者の帰りを待ったそうです。
翌日には、電気、ガスは復旧しましたが、断水が続き、食料が店から消え、給食が作れず、更に原発事故が発生し、休園。分園は倒壊が進み、保育ができなくなりました。そのまま廃園が決まり、休園中に、市の許可を得て(半倒壊と認定された為)園内の備品の搬出を全職員で行いました。
3月21日より、本園で合同保育を開始。(飲み物、昼食は各自持参して頂きました)たびたび大きな余震があり、0歳児は、毎日保育士が交代で1日おんぶの保育でした。又、原発事故の為、マスクを着用、外に出られず、雨や雪の日には子ども達をバスタオルでくるみ保護者が抱っこをし、
保育士が傘をさして、駐車場まで送りました。
4月になっても、半数ほどの園児は避難などで登園できず、再会できないまま退園した子どももいました。
日々刻々と変わる情報と状況に、その都度判断を迫られた理事長先生や園長先生、本当に大変だったと思います。子ども達もテレビや携帯の地震速報が鳴るたびにパニックになり、私達も少しでも安心させてあげたいと必死でした。
あの時、子ども達が午睡中で寝ていてくれた事、子ども達の上には何も落ちてこなかった事、周囲の方々のたくさんのご協力があり、近くに広場や消防署があり避難ができた事、たくさんの偶然が重なり、子ども達を無事に保護者のもとへお返しできました。
保育士となり、間もなく11年目、毎日何事もなく朝がくると思っていましたが、それは間違いでした。「行ってきます」と「おかえりなさい」はあたり前ではない。本当にそう思いました。
そしてもう一つ、私があの時、必死に布団をかけ、覆いかぶさったあの子ども達の中に、当時2歳だった、私の娘がいました。保育士という立場上、あの揺れの中で、娘を抱いて「大丈夫だよ」と言ってあげる事も出来ませんでした。園児全員の無事を確認しながら、必死に探した娘の顔。「ごめんね」と一言声を掛けて、再び園に戻り、子ども達のくつを集めながら”私はなんてダメな母親なんだろう”と涙が止まりませんでした。今までも「あの時、どんな風に思った?」と娘に聞く勇気はありませんが、生かされた命を、今を、一生懸命生きていこうという思いは、強くなるばかりです。
最後に、全てを受け入れ、再び保育士として採用して下さり、私の経験や思いを綴る機会をくださった園長先生には、本当に感謝しております。ありがとうございました。
長くなりましたが、私の東日本大震災での経験の報告とさせて頂きます。